
下津井の語源は、大畠の北に阿津があり、この下(しも)に辺る津(つ)で、「い」は比較的狭い町という意味から、また、郷内にある峠「井津井峠」の下で、下津井となったと様々な説があるそうです。
むかし下津井回船問屋

下津井節が聞こえてくる【むかし下津井回船問屋】には、資料館や食事処など様々なものがあります.下津井の歴史を学ぶ資料館はもちろん、食事も楽しむことができます。

下津井は江戸時代に、各地の産物を売り買いした北前船などで栄えました。ニシン粕を綿の肥料として買い入れ、帰り荷に綿などが積まれました。綿は塩に強いため、港町での生産に適していました。船の帆には、松右衛門帆が船の帆に使われていました.
北前船
江戸時代になると、児島は干拓により陸地になりました。稲作には適さない地だったので、代わりに綿栽培や塩田などが盛んになりました。当時は綿は貴重な換金物として重宝されていました。そして綿は北前船により出荷されていきました。
当時、北前船の寄港地であった下津井はとても栄えました。さらには瑜伽・金毘羅参りも当時賑わいを見せたのも加えて、下津井の港はたくさんの人で賑わっていたそうです。




なぜ北前船は下津井に
北前船は物資の輸送船のため大きかったので、容易に寄港できませんでした。そんな中下津井は風、風向、潮流、港の形態、港と港の間隔(距離)、物資の供給と需要の関係の条件に適した港の一つだったため、寄港地になったそうです。


